ダルマトーク(法話)
リトリートのスケジュールの中には、様々なプラクティスと同時にダルマトーク(法話)があります。
ダルマトークとは、サンスクリット語で「真理」、「法」を意味する「ダルマ」を意味し、私たちが自分自身を深く見つめ、人生をよりよく生きるための智慧がちりばめられたお話です。
今回のBob Stahlさんのリトリートでは、お釈迦様の一生についてのダルマトークがありました。
日本人の私にとって、お釈迦様は、小さい頃から「尊崇の対象」であり、一人の人間として見るということはありませんでした。なので、ダルマトークというのは、何か教条的な、宗教的な(そして退屈な…)お話かと思っていました。
けれどもBobさんが英語で語り、日本人の先生方が訳してくださる言葉を聞くことで、私の中で彼(お釈迦様)との間にスペースができました。尊崇の対象というよりも、一人の人間、「シッダールタ」として様々な角度から見ることができました。
また、Bobさん自身が彼と同じような体験をされたのか、とてもリアルに私の中に響いてきます。
一人の生き生きとした肉体と精神を持った29歳の若干おくての若者。真理を追求するためには、家族や周囲に人すべての手を振り切り、自分自身の命を失いかねない苦行に身を投じたりする様子を聞いていると、心理士としての私は、一人の人間シッダールタをアセスメントしていました。
「真理を追求するために、自分の周囲の人から突然離れていくとは…?
その時、彼は、少しは葛藤を感じていたのだろうか?感情は生じなかったのだろうか?
壮大な目的のためとはいえ…。こだわりの強い人だったんだろうなあ。周りが見えなくなる時があるんだなあ。
危なっかしいなあ。」等、等身大のシッダールタがそこに現れました。
6年にも及ぶ森での激しい苦行でも悟りを得ることはできず、衰弱していたシッダールタは、村の娘スジャータから乳粥をもらい、身体と心を回復させました。その後、命を助けられたシッダールタは、子供のころの体験を思い出し、菩提樹の下で静かに座し、瞑想しついに悟りを得たということでした。
スジャータの存在
その後、目覚めた人、ブッダはこれらの体験を通して仏教的な文脈での、「中道」や「慈悲」という大切な教えを生み出していきます。
けれどもこの法話の中で、私はスジャータの存在がとても心に残りました。
「ブッダはもちろんすごいけれど、スジャータがいなければ、彼は野に朽ち果てて死んでいたかもしれない。もし死んでしまっていたら、仏教はこの世に生まれてくることはなかっただろうし、その後の人間の歴史の中で、多くの人を救う悟りや教えも存在していないのだ。
スジャータの存在は、ブッダと同じくらい大切なのではないかしら?」
スジャータの存在の意味は、弱肉強食の長い歴史の中で人が生き抜いてこられたのは、命をやさしく愛おしみ、守り育てるという生存をかけた究極の智慧をかもしれません。
仏教における慈悲は、修行や教えによって育てる心の状態でもありますが、その基盤には、このような誰しもが持ちうる優しさ、思いやりやいたわりの心があると言われています。
ブッダやその後に続く、慈悲の教えや四無量心は、人間に本来備わってきた可能性に注意を向け、体系化したものであるともいえるそうです。
支えあうもの
Bobさんの法話は、その後、今を生きる人たちが苦難を経験した後、どのように変化成長していったかに移っていきました。
一方で、私は、「スジャータ」が象徴する意味に意識が向いていました。
一人の人間が「目覚めたもの、ブッダ」になるためには、その過程で、どれほど周囲の人の優しさや忍耐、犠牲、受容、慈悲と自然の豊かさと静けさが必要であったのだろうとも感じました。
同時に、もし目覚めたものが、その本質を深く見つめ、私たちの対応を探索していかなければ、それらの忍耐や犠牲は目は向けられず、その存在に報いることもできず、永遠に弱肉強食の世界は続いていく…。
お互いがまるで糸のようにより強く糾(あざな)いながら、結ばれ、網となり、私たち生きとし生けるものや鉱物などの無生物も含めて、救いとっていく…。
まるでスジャータとブッダの関係性は、コンパッションとマインドフルネスと同じ…。
両者が見つめるものは、過酷な現実、道半ばで倒れた人々のこと。その存在に自然と湧きでる暖かい心を寄せるような優しさ。
Bobさんが最後におっしゃっていた「やさしさ」が最も大切なもの…。
という意味は、もしかしたらこういうことなのかもしれません。
みなさんも、もしよければリトリートに参加して、ご自分の中の宝物を見つけてみませんか?