人とのコミュニケーション
MBSR(マインドフルネスストレス低減法)プログラムの中では、私たちが生活の中でストレスを感じる代表的なものとして人とのコミュニケーションを取り上げ「マインドフルに聞く、話す」というプラクティスが行われます。
心理士の私は、「マインドフルに聞く」というプラクティスは、カウンセリングの基本である「受容」や「共感」を大切にするということと同じではないかと考えていました。けれどもこのプラクティスは少し異なっているように感じていました。その微かな違和感は、いったいどこからきているのだろう…。と時々頭をよぎっていました。
布施
ある日、私はYou-Tubeで、菊谷隆太さんの「仏教に学ぶ幸福論」の「仏経版 内気で自己主張が苦手に人でも一目置かれる人の特徴(仏教の教え)」というタイトルがとても興味深く、聞き入っていました。自己主張が苦手だと感じる方は、日本人には多いのではないでしょうか。
お話の中では、自己主張が苦手な営業の人たちの例を挙げられて、顧客の本当のニーズを聴くことで、その人たちに仕事の人生が開かれていくという内容を「布施」という視点で語っておられました。
「仏教で「布施」という行為は「与える」という行為であり、「与える」というのは、お金や物を与える、知識を与えるだけではなく、相手の気持ちを汲み取って相手の話をよく聞く=傾聴にあたります。苦しみや悩みの声を聴くことは、その人を励ますことにもなるし、その人を支えることにもなる…(説明の中から抜粋)」と話されていました。
仏教的な視点から見ると、傾聴することは、「布施」にあたること、自己主張が苦手な特徴を悪いと判断せずに、そのまま生かすこと、そしてその根幹には自他に対する慈しみの精神があることは、私には大きな発見でした。
ただ、僧侶でもない私にとって、「布施」、「与える」という言葉や行為は、何か上から目線のようで居心地が悪い気がしたのでもう少し「布施」について調べてみました。原語はサンスクリット語の「ダーナ」から来ており、「自分の大切なものを提供する」という意味だそうです。
すべての人々ができる「無財の七施」というものがありました。これを読むと、そう言えば…、幼い頃に聞いた火の中に身を投じるウサギの話や大学院の行動療法の教授が「和顔愛語」とよく言っておられたのを思い出しました。生活の中でそれとは知らないで過ごしていたのにも驚きました。
- 眼施(慈眼施)慈しみの眼、やさしい目つきですべてに接すること
- 和顔施(和顔悦色施 わがんえつしきせ)いつも穏やかに、穏やかな顔つきを持って人に接すること
- 愛語施(言辞施)もの優しい言葉を使うことである。しかし叱る時は厳しく、愛情のこもった厳しさが必要である。思いやりもこもった態度と言葉を使うこと
- 身施(捨身施)自分の身体で奉仕すること。模範的な行動を身を持って実施すること
- 心施(心慮施 しんりょせ)自分以外のもののために心を配り、心底からともに喜んであげられる、共に悲しむことができる、他人が受けた心の傷を自分の傷の痛みとして感じとれるようになること
- 壮座施(そうざせ)分かりやすく言えば座席を譲ること、疲れていても電車の中では喜んで席を譲ってあげること。さらには自分のライバルのためにさえ、自分の地位を譲っても悔いないでいられること
- 房舎施(ぼうしゃせ)雨風をしのぐ所を与えること。例えば突然の雨にあったとき、自分がずぶ濡れになりながらも相手に雨のかから無いようにしてやること、思いやりの心を持ってすべての行動をすることである 法華宗真門流「「無財の七施」~誰にでもできる仏道修行 七つの施し」より抜粋
深く耳を傾ける
ティク・ナット・ハンさんの「大地に触れる瞑想」という本があります。(「大地に触れる瞑想」~マインドフルネスを生きるための46のメソッド~ ティク・ナット・ハン 島田啓介訳、2015 野草社)
その中のNo.19「深く耳を傾ける」という文があります。その中には、話を聴く自分自身の心への仏教的な理解と対応が示されています。とても興味深い部分です。
そして、その最後に、「わが師ブッダよ。体、言葉、心を一つに合わせ、深く聴く実践の誓いをていねいに心に刻むために、私は三回大地に触れます。」と締めくくられています。なるほど…、聴くという行為は、仏教的な視点では、「自分の大切なものを提供する」実践なのだなあと感じました。
「マインドフルに聞く、話す」プラクティスは、「お互いの大切なものを提供しあうプラクティス」ということでしょうか。
MBSRのこのプラクティスは、自分自身を3つのレンズで観る練習を重ねたうえで、人間という存在への深い洞察と他者への同じ人間として分け合って生きていくというの暖かい態度が、その根底にあるのかもしれません。
人間としての自分自身をより深く知るためのプラクティスを重ね、人間というものを深く見つめる、次に話を聴く相手を深く知り、そして、お互いの全存在を感じながらコミュニケーションを重ね、より良い選択を行う。
私が感じていた違和感は、仏教的な視点から見ることによってしだいに溶けていきました。
なお、すべての人が、このような聴き方や話し方ができるのではないというのも現実です。私が受けたMBSRの中では、「これは、お互いが困難がありながらも関係性を何とかより良いものに変えたいと思っていることが前提になっていること。また、話の内容が、病気や暴力や虐待等の可能性がある時、非常に複雑な人間関係の話を聴いたときは、話してくれた相手や自分を守るために、マインドフルに自分と相手の状況を判断し、自分自身が信頼できる人に相談したり、相手を専門家や専門機関につなぐことも選択肢になるでしょう。」と言われています。