海で…
宗像大社秋季大祭「みあれ祭り 海上神幸」へ行ってきました。早めに到着し、私は砂浜に点在しているコンクリートに座って、お祭りを待つことにしました。
「みあれ祭」は、「3人の女神さまが一番下の辺津宮の市杵島姫の待つ神湊まで海上神幸し、年に一度お会いになるというお祭りです。大漁旗をなびかせ玄界灘を進む漁船団の姿は壮観で、海上交通の安全を司った宗像三女神の面目躍如たる壮大な「海」の神事です。」(世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群ホームページより引用)
その日は、とても良いお天気で、日傘をさしていても身体に照り付ける日差しを感じるほどでした。けれども10月の初旬の海風は心地よく頬をなぜます。海に来たのは何年ぶりでしょうか…。
昨日、仕事を終えてから新幹線に乗り、小倉で一泊し、ツアーのバスに乗りやっと到着しました。
体はここに到着しているものの、心はまだ、移動中の感覚を抜け出せないようです。自分の全体が、今ここにいることをはっきりと意識してみます。
青い海、空の雲を前にして「到着の瞑想」をしてみます。5分くらいです。
まず、このような時間を持つために努力した自分自身とそれを支えてくれた人たちにねぎらいの言葉をかけます。
「今年は、よく思い切ったね、日常を離れるのは大変だったね。そして、楽しんできてねと言って見送ってくれた人、ここまで運んでくれた人、私がここに無事にたどり着くために支えてくれた人、皆さん、ありがとうございました。」
次に、足の裏をしっかりと砂浜に置き、意識してみます。靴に包まれている感覚とともに砂地の柔らかく、微妙さが伝わります。
背をすっと伸ばします。コンクリートの上に座っているお尻のあたりはしっかりと重心がかかるので痛いくらいです。
呼吸を意識してみます。息を吸うと、鼻の下あたりに優しい海の空気が通り、鼻の奥のあたりで潮の香りがします。
息を吐くと、身の中にある都会の喧騒や体に良くないものが出ていく感じがします。
しばらくすると、自分が自然に溶け込むような感じがします。
目はつぶっていますが、光を感じます。そして、風の音と波の音が聞こえています。
頬を潮風がやさしくなでていきます。
ああ、やっと今ここに到着しました。
海の音
もう少し、瞑想を続けてみました。
次に意識を「音」に向けてみました。目をつぶり、耳を澄ませて、音そのもの、そして音の性質に意識を向けてみます。
大きい音も微かにしか聞こえない音。遠くから来る音、近くから聞こえる音、様々な音が聞こえます。
意識をさらに聞こえてくる音に合わせると、波の音が聞こえてきます。色々な波の音があります。砂浜の砂の上を連続して走る音、連なって近くまで来る音、テトラポットに激しくぶつかる音、寄せては引いていく波の音。
しばらくすると、「波の音」って、必ず何かに接触したりするときに発生するのであって、「波の音」という音は、それ自体では存在しないのではないかしらと思いました。
意識を少し広げてもみました。
時折聞こえる子どもの高い声、女性の柔らかい声、車の音、海鳥の声、ヘリコプターの大きな音。
ああ、私は自然だけではなく、こんな色々な人や物がある世界で生きているんだなあ。
耳に入るすべての音は、やって来ては、少しの間留まり、そして去っていきます。その中で、私はただそこにいて座っています。
子どもが小さい頃、海に行った時の嬉しそうな子どもたちの顔も一瞬、浮かんできては、また瞬間、留まり、そして消えていきます。その時、胸のあたりが暖かくなり、目のあたりが熱くなるのを感じました。
今までいろいろなことがあったけれども、「今、ここ」にこうして、生きて、呼吸して、お祭りを楽しんでいられることが本当に嬉しい、良かったなあ、ありがたいことだなあという思いが広がってきました。
思い切って遠出をしても、行くこと、すること=doingに夢中になったり、それを残したくて写真を撮ることに夢中になりがちな私でしたが、少しの時間ですが、この玄界灘の自然を前にして瞬間、瞬間に留まることができたことは、自分自身の中にこの経験を深く留めることができたようです。
もし良ければ、皆さんも日常の中で、様々な所に到着された時に、「到着の瞑想」にチャレンジしてみてくださいね。いつもと同じでしょうか?それとも少し違う体験になるでしょうか?