今年最後の参禅会
12月に入ってから、北風が強く,寒さが厳しい日が続いており、今日は一段と冷え、霜が降りていました。お天気は良く、空気は乾燥しており、凛とした冬の冷たい空気が張り詰めています。
今日は、今年最後の参禅会です。朝早く起き、お寺に着くと、すぐにそばにある畑の野菜の様子を見ます。白菜は、霜にあたり、しなっとなっている葉もありながら、みんな太陽の方に一生懸命に顔を向けています。健気なその姿に心を打たれます。
頬を突き刺すような冷たさの中、覚悟して坐禅堂に入りました。
呼吸に注意を向けていると、冷えた新鮮な空気の粒が体に入ります。そして、様々な思いや考えがやって来ては、しばしとどまり、そして去って行きます。障子を通して、太陽の光が体全体を包むように暖かく感じられます。また、お寺の方が参禅者の体調を慮って、ストーブをつけてくださり、坐禅に良く取り組めます。
すると学生時代に、習った「枕草子」の冬の段が浮かんできました。千年以上も前に日本の四季をこんなにもマインドフルに感じ、観察していた清少納言はすごい!とあらためて感じます。同時に私たちって、千年前と同じように寒さに対応しているんだと思うと人間って同じだなあとも感じます。
冬はつとめて
雪の降りたるは
いふべきにもあらず
霜のいと白きも
またさらでもいと寒きに
火など急ぎおこして
炭もてわたるも
いとつきづきし
昼になりてぬるくゆるびもていけば
火桶の火もしろき灰がちになりて、わろし (清少納言 「枕草子」より一部抜粋)
「癒し」は突然に…
座禅をしながら、自分自身の思いや考えを観察していると、交通事故に遭われたご家族にどのような言葉を年の終わりにお伝えしようかと考えている自分がいました。
考えは続きます。「仕事もしながら、子育てもし、ご家族のことを気遣いながら病院へ通う月日はどんなに大変だったことでしょうに…。」と思いっていると、私に身体の変化が急激に起こりました。
のどが詰まり、胸が苦しくなって、涙が出てきました。突然のことで自分でも驚きました。自分自身にこのまま座って自分自身を見つめることが今日はできるか?と自問し、今日はその思い向き合ってみることにしました。(例えば、今日は難しいと感じる時は、参禅者には呼吸に戻ったり、足を組みなおしたり、場合によっては、坐禅を止める等様々な選択肢がマインドフルネス瞑想と同じようにあります。疑問や不安がある時は必ず瞑想の指導者に相談しましょう。)
涙はしばらく止まりませんでした。そのままにさせておくことにしました。するとやがて、涙を流すのと同時に何かが溶け出したかのように喉のつまりが取れていきました。そして、胸が暖かくなり、そして身体全体が暖かくなりました。
「ああ、この言葉は、かつての自分自身への言葉だったのかもしれない。」と気が付きました。
当時は自分の仕事や子どものこと等、生きていくのに必死で、年老いた親が入院した時は、ただ粛々とやることをやらなければならない。今できることを淡々とやっていくしかない。こんなことは誰でも経験することだ。」等と考え、懸命に生きていた自分が甦りました。
その時は必死で、自分の思いやあふれるような感情に押し流されるのが怖くて、ありのままに自分を見ることは出来ませんでした。
「どれだけ大変だったことか…。本当によくやって来たね。がんばったね。」
周りの人に泣いているのを知られたくなくて、鼻が出たふりをして涙をぬぐいながら、自分にやっと暖かい労いの言葉をかけることが出来ました。父や母が亡くなって5年が経っていました。
気が付くと、私は幾重にも包まれた安心した中に居ました。坐禅堂という仏様の教えの中、人の思いやりの暖かさに包まれた空間の中で、またその坐禅堂は、太陽の光の暖かさに包まれていました。
ようやく私に訪れた「癒し」の瞬間でした。
慈悲の瞑想では、自分が経験した暖かい気持ちと感謝を周囲に祈りの言葉と共に広げていきます。一方で、今回は他の人への労い、慈しみの気持ちというものが、時として、自分自身へも照り返すようにかえってくるという不思議なそして暖かな体験でした。
年の瀬に今年一年お世話になったみなさん、このブログを読んでいただいたみなさんに感謝いたします。どうもありがとうございました。そしてどうぞ良いお年をお迎えくださいね。